原作のある映画やドラマの宿命。
それは原作と比較されてしまうこと。
映画として、あるいはドラマとして面白ければ、原作と比較されることもないのに。
しかし、作り手たちはしばしば、「ヒットしている原作」のエッセンスを借りれば、多少のことは大目に見てもらえると思っているようである。
自分がもともと原作を読んでいて、映画化作品も「おお!すげーなー!」と思ったものはそれほどたくさんない。
かつてはジョン・アービングの「ガープの世界」。
最近では嶽本野ばらの「下妻物語」。
二作品ともディテールは原作とはちがう。
しかし、映画を観ていて感じるのは、作り手側が如何に原作を愛しているかという思い。
原作「下妻物語」の面白さは、「下妻物語・完」の中で主人公・桃子のモノローグという形で見事に表されている。
--恋愛って全て感動から生まれるんだよ。恋愛って感動のことなんだよ。そしてその感動って、素直なものに触れた時にしか生まれてこないんだよ。(中略)貴方の大バカを通り過ぎた、驚くべき素直さに、がむしゃらな素直さに、私、うっかりやられて感動してしまったんだよ。
「下妻物語・完」より
映画「下妻物語」は原作に輪をかけてバカだった。
しかし、バカであればバカであるほど、映画が面白くなるのと同時に、桃子とイチゴの大バカなほど素直な友情が際立つ。
これは原作を読み尽くし、原作を愛している人たちが映画を作ったから出来たことなのではないだろうか。
なにより「下妻物語・完」は桃子=深田恭子、イチゴ=土屋アンナを想起してしか読むことが出来なかった。
映画化するなら、ふたりが高校生に見えなくなる前にとっととやってくれ!!
話が長くなった。
で、ビデオに録画しておいたドラマ
「ドラゴン桜」をやっと観た。
7月13日の
「あらかじめ失われた原作たちよ」で心配したとおり、ドラマは原作と違う着地点を探しているようである。
原作の面白さが、閉鎖的な人間関係+意表を突く東大攻略法にあるとするならば、ドラマ「ドラゴン桜」はそれを見事に捨て去っている。
「ドラマ」としてのリアリティを原作以上に求め、その上で、「意表を突く東大攻略法」をラストに持ってくる。
まだ第2回目しか観ていないのに、こういうことを言うのは独善的かも知れないが、桜木も、勇介も、そして直美もドラマの方が魅力的だ。
バックボーンを原作以上に描くことにより、観客を「偏差値30から東大合格」という奇想天外な設定に引き込んでくれる。
設定を大幅に変えながら、原作のスピリッツは失っていないということだろう。
もちろん長澤まさみにはトキメキまくりっ!
彼女と比べると・・・残念ながらハセキョーのオーラも随分減退したもんだ。
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